写真論的な写真―《中断された場所》
浅井 俊裕(水戸芸術館現代美術センター芸術監督)
コンクリート壁で囲まれた資材置場や廃棄場を撮りためた写真―一見するとそのように見えるけれども、《中断された場所》というこのシリーズに写っているのは、小林秀雄自らが作り出した空間である。コンクリート壁のように見える壁面も、実際には表面にコンクリートを塗ったベニヤ板をつなぎ合わせてできている。小林は撮影場所に20枚ものこの板を運び、組立て、壁に囲まれた空間を作りだし、8×10のカメラで撮影する。身近にある空間をほぼそのまま切り取ってはいるが、いわゆるドキュメント写真ではなくて作者によって再構成された架空の日常空間の写真なのである。
日常の風景を切り取るという行為、あるいは(作品タイトルに絡めれば)日常を「中断」するという行為は、写真を撮る行為によく似ている。写真は、連綿とした世界からカメラのフレームに区切られた範囲の光景を切り取る作業だが、小林の作品も日常世界の一部を壁によって周囲から切り取り、その光景をさらに写真という技法によって保存しているのだ。彼のこの制作行為は、ふだんは忘れているけれども、写真というものが行っていることを暗示し、再認識させてくれる。すなわち、写真はフレームの中のできごとだけを伝えるのであって、その一歩外のことを見る者はうかがい知ることはできない。そして逆にフレームの内であれば、写真は作られた被写体であってもそれを「現実」として他人に伝えることができるのだ。その意味では、《中断された場所》は写真そのものである。
写真の本質にも迫るこのシリーズであるが、よく見ると「中断」の仕方には二つの種類があることがわかる。ひとつは廃品や使い古された道具など中心となるオブジェを壁で囲んで強調するパターンであり、もうひとつは、道や庭など、通常つながっているべきものを壁によって突然仕切り、文字通り日常を「中断」したような作品である。とくに後者の作品には、日常的な連続性を否定したような超現実的な雰囲気がある。
また、この二つの作品群は、《中断された場所》というタイトルから読みとることのできる二つの意味にほぼ対応している。すなわち、もっとも普通の読みとりでは、世界から一部だけ切り取られ隔離された風景という意味であり、もうひとつは、機能を途中で中断され、道具としての命を奪われたモノたちという意味である。シリーズ中の多くの作品に使われている廃品たちが訴えているのは、物体としては今でも確かに存在しているけれども、道具としての使用機能を奪われ捨てられたモノたちの悲哀であろうか。いずれにせよ連続性を断たれたことを暗示するこのタイトルは、周囲の喧騒から分け隔てられた特異な空間や夜の闇やコンクリートの冷たい色感と相まって、ストイックな小林の作品世界を作り出している。
「クリテリオム 41」リーフレットより転載